先人から学ぶイノベーターの姿~大阪から
DATE18.11.05
前回パナソニックミュージアムを訪問した時、松下幸之助氏が創業当時、妻と妻の弟の井植歳男氏(後の三洋電機創業者)の3人で電球用ソケットの製造販売を始めた当時を再現した家屋を拝見した。生活に困窮しながらも夫を支え続けて作業する妻むめの氏の姿が印象的だが、そこには「難儀もまた楽し」とある。この風景は、現代風に言えば、まさしくイノベーターであり、ガレージでアップル創業の礎を築いたスティーブ・ジョブズとウォズニアックの姿に重なるものがある。社会に変革をもたらすための確固たる信念や情熱そして覚悟がなければ成し遂げられなかったであろう情景が伝わってくる。
東京に戻る前に、1918年(大正7年)3月7日に創業の地、現在の大阪市福島区大開2丁目に足を運んでみたが、工場跡地には創業の記念碑が建てられており、幸之助氏を敬愛し続ける市民の心にも触れることもできた。大阪市出身者として、少し誇らしい気持ちを持たせて頂いた。そういえば、大阪から世界に誇れるものは、他にもあると思い立ったことで、1730年(享保15年)9月24日に開設された大坂堂島米会所の跡地にも立ち寄ってみた。
現在の大阪市北区堂島浜1丁目で現在は記念碑が建てられている。当時、年貢米の集積地の大坂の米会所は、米切手(こめきって)という証券を使って米を売買する市場で、現物取引の「正米取引」と先物取引の「帳合米取引」が行われていた。大坂の帳合米取引は現物の受渡しを前提としない、反対売買による差金決済のみの先物市場としては、世界初ともいわれている。高槻泰郎氏は、その著作「大坂堂島米市場」(講談社現代新書)で同市場について「取引とは1対1で行うもの、そして商品と代金を受け渡しするもの、という発想にとらわれなかったことで、大坂米商人は売りたい時に売れる、買いたい時に買える市場を創り出すことに成功した。現代の言葉を用いるならば、流動性の高い市場を創ることに成功したのである。」と、また「米市場における流動性を高めるところにその本質があった。」と述べられている。このような市場創設の背景には、当時の江戸幕府が向き合ってきた様々な出来事が現在の金融市場においても通じる点が多々あることから、当時の大坂米商人も世界的に評価されるイノベーターであったのではないだろうか。現在の北区堂島浜周辺は、ニューヨークのウォール街やロンドンのシティのような活力に満ち溢れていたように思えてならない。
堂島米会所は今から288年前、パナソニック㈱はちょうど100年前の創立である。先人のイノベーターはいったいどれ程の思いや熱い情熱を持って、社会の変革に取り組もうとしたのだろうか。ふと足跡を残した地を訪れ、思いを馳せてみると、少しのヒントに出遭えそうな気持ちにさせられる。
一般社団法人日本金融人材育成協会理事
飯田 勝之